【拡散希望】「南京虐殺」説の裏に隠された中国軍の蛮行 その3 督戦隊による残虐行為

南京事件

南京虐殺は中国軍の蛮行のミラーイメージだ!


日本軍による南京虐殺など真っ赤な嘘です。それどころか、一般の中国人に対して蛮行を働いていたのはむしろ中国軍の方です。

南京事件の前後、中国軍はいったい何をしていたのでしょうか? じつは彼らこそが掠奪、殺人、強姦を含む非道な残虐行為を働いていたのです。

いまの中国人が非難しているのは現実の日本軍ではありません。そこに映し出された自国軍のミラーイメージです。じつのところ、中国人たちは鏡に映し出された自分たち自身の姿に怒りをぶつけているだけなのです。

このシリーズでは、そのミラーイメージのもとになった中国軍のおぞましい行状を、左翼勢力によって長い間隠蔽されてきたその歴史の裏面を五回にわたって暴き出し、白日の下にさらしていきます。

五回シリーズ「南京虐殺」の裏に隠された中国軍の蛮行

第一回 漢奸狩り
第二回 支那軍の実態
第三回 督戦隊による残虐行為 ←今ココ
第四回 安全区内での中国兵による犯罪
第五回 通州事件

 

第三回目の今回は、督戦隊による残虐行為を取り上げます。

「南京事件」の前後、中国軍が行っていた悪行のまとめ その三、督戦隊

前回は支那軍の残虐性を取り上げましたが、それを象徴しているのが督戦隊です。督戦隊というのは前線兵士の後方に陣取る特殊な部隊で、その任務は兵士の敵前逃亡を防ぐことにありました。臆病風に吹かれ戦線を離脱しようとした兵士は、この督戦隊によって容赦なく射殺されたのです。

南京戦においてもこの督戦隊が活躍していました。以下の日本兵の証言にも、足を鎖で繋がれた状態でトーチカに残され、死ぬまで機関銃を撃ち続けることを強制された少年兵のケースが出てきます。もっともこれはもしかしたら上官による虐待行為であり、必ずしも督戦隊の仕業ではないのかもしれません。しかし中国軍による自軍兵士に対する残虐行為という点ではいずれにせよ同じようなケースといってよいでしょう。

鎖につながれた少年兵

歩兵第十三連隊上等兵 永田尚武

戦いが終わって、敵のトーチカを検分してみた。すると、トーチカの中国兵は足を鎖で繋がれており、中から出られず、死ぬまで機関銃を撃ち続けるように強制されていた」。

歩兵第一旅団長 坂井少将

「敵はトーチカの外部を鎖で巻き施錠してあった。内部の守兵にとっては、絶対の墓場となっており、人道上、許しえない暴状であった」。

 

第独立軽装甲車二中隊本部曹長 藤田清

「清水伍長とともに下車して匍行し、銃座に近寄って中をのぞいて見ると、人が居るようだ。よく見ると死んでいる。

恐る恐る壕の中に入ってみると、二十歳前と思われる若い銃手が、鎖で足をつないだまま死んでいる。銃側には赤黒色の卵が十数個あり、弾丸もまだ残っている。この卵は保存食であろう。ほかの銃座も同じようであったが、私は中国兵のポケットをさがして書類を見つけ、これを持ち帰った。

私たちは、この中国兵は犯罪兵のため決死抗戦をさせられたのであろうと、話し合っていた。ところが、南京入城後、山田部隊の従軍記者、石川暮人氏(私の中学時代の漢文の先生で僧侶)にお会いして、この書類を見せたところ「犯罪兵ではない。決死の志願兵である」と言われた。私は中国にも祖国愛に燃える若者がおり、自ら足を鎖で結んで抗戦したその姿に感動した」。

『証言による「南京戦史」』(偕行社)より
http://www.history.gr.jp/nanking/sougen_nanking03.pdf

証言には「自ら足を鎖で結んで抗戦した」とありますが、その当時「自ら足を鎖で結んで」まで戦おうとした少年兵がいたとは考えられません。なぜなら他の資料をあたればわかることですが、そうした少年兵の多くは自ら志願したのではなく、中国軍によってほとんど拉致同然に連れてこられたケースがほとんどだったからです。それに少年兵でさえそれほどの覚悟と戦闘意欲を持っていたのであれば、そもそも督戦隊など中国軍には不要だったはずです。したがって、これも上の永田上等兵らの証言と同様、「無理矢理そうさせられていた」とみたほうがよいでしょう。

中野部隊上等兵 谷口勝

進軍しながら石原上等兵が、「おい、さっきの山のトーチカを見たか」と言った。
「そんなもの見とれるかい」
「いや、わしは見たがな、どれだけわしらがトーチカを抜いて後へ廻っていても射ち続けていやがったろ。その筈だ。奴ら三人足を鎖で結わえられていたぞ。弾薬をトーチカ一杯につめられてなァ――」
憮然たるものがあった。
「射つより他に仕方なしさァ」
大軍は南京へ、南京へ! と驀進する。

戦場手記 『征野千里』 谷口勝著 新潮社(昭和13年12月発行)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-322.html

第65連隊長両角業作大佐

9月2日には、無事に黎家集についた。苦労したのは第13師団である。葉家集の中国軍は頑強に抵抗し、第104連隊第2大隊は、1日から2日朝までかかってようやく部落を占領した。部落には、師団の「10ヵ月分」の飯米が遺棄されていて、報告をうけた第103旅団長山田栴二少将は拍手して喜んだ。

第104連隊の左側の第65連隊も開順街を守る約300人の「犠牲兵」の抵抗にてこずった。ようやく突破してみると、ひとつのトーチカ陣地に、16、7歳の少年兵が足を鎖で支柱に結びつけられ、手榴弾で自決している姿が発見された。捕虜の説明によると、「足鎖」は少年兵自身の希望によるもので、死守の覚悟が動揺して逃げてはならぬとの自戒のためであった、上官もその嘆願にしたがって少年兵の足に鎖をまき施錠した、という。

だが第65連隊長両角業作大佐は怒った。たとえ、少年兵が望み願ったにせよ、そのような異常事を許すのは、指揮官として欠格である。「非人道もはなはだしい。鬼畜にもまさる敵軍の将校どもだ」。大佐は怒りと哀悼の意を涙でにじむ双眼で表明しながら、酸鼻な少年兵の屍体に黙祷した。

『日中戦争5』 児島襄著 文春文庫 P39~40

中国軍の清野作戦(=三光作戦、焦土作戦、燼滅(じんめつ)掃討作戦) | 正統史観年表
戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植...

中国軍には、末端の兵士には多くの少年兵が含まれていました。現在のアフリカでの紛争もそうですが、その多くは拉致されたうえ、無理矢理兵士にさせられたのです。

上記、『参戦勇士九人が語る「南京事件」の真実』にも降伏する少年兵の姿が映っています。

 

挹江門事件

次は南京戦の際、撤退する中国兵と督戦隊とが衝突した挹江門事件に関する資料です。

挹江門事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%A6%E6%B1%9F%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(WIKIより)
挹江門事件(ゆうこうもんじけん)とは、1937年(昭和12年)12月12日夜の南京戦において、城内に進撃する日本軍の攻撃によって敗走して挹江門を通り抜けようとした中国国民政府軍87師、第88師および教導総隊の潰走兵と、それらを武力阻止するよう唐生智に命ぜられた督戦隊である国府軍第36師212団とが衝突して双方が発砲した結果、約一千名の中国軍兵士が死亡した事件。

 

同じくWIKIには、当時国民党将校として上海戦に従軍した阿壠(アーロン)氏が1939年重慶爆撃下の重慶で発表した小説『南京』の中で描いた次のような挹江門事件のシーンが紹介されています。

阿壠『南京』

挹江門の三つの城門はすべて半分しか開かれてなく、あとは砂嚢で塞がれていた。守備部隊は人の通行を一切禁じて、群衆に対して散発的な威嚇射撃をしている。群衆は盛んに罵り声をあげて大騒ぎをしている。しかし群衆はこの城門を結局突破した……この群衆に対し、守備部隊が機関銃の掃射を開始した。大混乱に陥った群衆の中からもこれに応戦して発砲する者があり、城門の上と下とでまるで市街戦を演じているようだ。秩序など完全になくなり、人々が際限なく密集してくる。倒れた人の顔を後から押し寄せる人が次々に踏んでいく。鼻がつぶされ、眼球が飛び出し……人がばたばたと倒れる。押し寄せる人の足元で秋の虫のようなうめき声が広がり、倒れ重なった人垣から号泣が響く。それでも人々は城門をめがけて突き進むのだった……「上から撤退せよと命令されているんだから通せ!」、「上からは誰一人絶対に通すなと命令されているんだ!」……倒れていく人、押し寄せる群衆……間もなく、死体と重傷の人間が、半分だけ開いていた城門を厚く厚く塞いでいった。

 

当時中国軍兵士だった陳登元氏が著した回想録『敗走千里』にも督戦隊が描かれています。

長江の氾濫にも似た、死にもの狂いの退却軍の激流は、併し、幾ばくもなくその流れを停止した。

奇跡が現われたのだ。奇跡・・・まさに奇跡に違いない、長江の氾濫を止め得たと同じ意味においての奇跡だ。

が、この奇跡には相当の犠牲が払われていた。少なくとも一万・・・一万に近い命を犠牲にしての奇跡だ。では、その奇跡の正体は何か?

督戦隊である。督戦隊の機関銃である。激流が巨岩にぶつかって飛沫(ひまつ)を揚げるように、退却軍の前面、側面に陣していた督戦隊の機関銃は一斉に猛烈な火を吹き、雨あられと銃弾を浴びせかけて来たのである。

見る間に死体の山が築かれたが、それでも後ろから後ろからと押してくる退却軍の流れは止まない。死体の山は段々高くなっていった。そして遂にその激流を阻止したのだった。

督戦隊の機関銃はそれで沈黙した。併しそれはいつでも射撃し得る態勢をもった不気味な沈黙だった。

『敗走千里』陳登元著/別院一郎訳・教材社・昭和13年3月(GHQ焚書図書開封3)

支那軍の督戦隊 - かつて日本は美しかった
支那軍には督戦隊というのがあります。兵士の後方から「それ行け!」「やれ行け!」というより敵から退却してきた兵士を撃ち殺すのが主な役割です。 日本に留学していて支那へ帰国したら徴兵にとられてしまった陳登元君の記録にも督戦隊のことが書かれています。戦闘は上海戦のようです。支那軍総崩れになって退却するときのものと思われます。...

 

当時陸軍少佐であり、後に参議院議員となった松村秀逸氏もこのように語っています。

松村秀逸元陸軍少佐

「支那軍は第一線に雑軍を立てる場合が多い。その後に督戦隊が頑張っていて、逃げ出そうとすると後ろから撃つのである。また無茶なことをするもので、トーチカの中で手枷・足枷をつけて、鎖でくくりつけたり、トーチカの鉄の扉に外から錠をかけたりしている。私は北支戦線でも広東でも、この手枷・足枷を見たのであるが、全くひどい事をするものである。要するに逃げ出さないように万般の手段を講じているので、進むも死、退くも死、必死の地に追い込んで、戦いをさせるのである。最も激戦だった上海戦線の如きは八段構えの布陣である。第一線、第二線と第八線迄あって、これを時々取り替えるのである。『この前督戦隊で、おれを撃ったから、今度はこっちが撃ってやるぞ』という寸法。支那人同士が仇討ちのつもりで、第一線が逃げ出そうとすると後ろから撃つのであるから、頑強な抵抗をしたわけである。」

日本の進路 - 国立国会図書館デジタルコレクション
国立国会図書館デジタルコレクションは、国立国会図書館で収集・保存しているデジタル資料を検索・閲覧できるサービスです。
南京を脱出し多くの中国兵士を見捨てた蒋介石・唐生智は何を狙っていたのか
前回の記事で、昭和12年(1937)の盧溝橋事件から第二次上海事変に至るまでの経緯について書いたが、わが国は何度も犠牲を出しながらも終始受け身であり、日中の戦いに持ち込もうと挑発行動を行なったのは常に中国側で、わが国は戦争を回避しようとし続けたことを書いた。しかしながら、7月29日の通州事件で日本人居留民260名が惨殺...

 

高橋義彦中尉

「(12月)13日11時頃、敵の突撃部隊は便衣を着た民兵たちで、質が落ちてヘッピリ腰で押し出してくる。異様な感じがした。見れば、私たちの抵抗をうけて反転しようとする兵を督戦隊が後方から射殺している
督戦隊は『督戦』という腕章.をつけ、大型モーゼル拳銃をかまえて約四歩間隔に横に展開しており、突撃部隊を押し出すのが任務であったようだ。 味方撃ちで殺された敵の死体は、死体総数の約1割、三百名を下らないと観察した。」

http://www.history.gr.jp/nanking/sougen_nanking06.pdf

 

台湾のブログにも督戦隊のことが記されていました。

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中国國民黨督戦隊

在中日8年戰爭中的中國軍督戰隊是使中國軍隊死亡數目最多的原因之一。

上海松滬戰役時,中國第十九師對上日本軍,受到日本軍猛烈攻擊而後退之際,不幸遇到後方的中國督戦隊。

被夾在日軍和督戰隊間的第十九師面臨「兩邊都會死」的絕境,竟選擇了攻擊自己人中國督戰隊(可能與日軍相較之下中國督戰隊比較弱),督戰隊也用全力應戰自己人中國第十九師,自己人殺自己人產生數千名的死者和傷者。

中国的督戰隊輕視人命。又當時蔣介石的中國軍隊習慣拉夫強押年輕人當兵,更需要在後面用機關槍頂著,以免這些不願保衛祖國的人陣前逃亡。

惡名昭彰的中国軍督戰隊(佩帶「督戰」臂章的部隊)強迫前面士兵前進,士兵逃亡就從後面開槍擊斃。

中國軍縱使有督戰隊「加持」,但武器落後,作戰觀念落伍,在自己國土戰場上仍敗戰連連。

(大意)

日中戦争における中国兵の死亡原因として最も多かったのは督戦隊によるものだった。

上海戦時、前方の日本軍と後方の督戦隊にはさまれ、絶体絶命の状態に陥った中国第十九軍は、戦力に劣る督戦隊との交戦を選び、その結果、数千人の死傷者を出した。

 

最烏龍的督戰隊發生在中國南京保衛戰

在南京保衛戰中,12月10日 日本軍開始發動總攻擊,中國軍隊由宋希濂部擔任督戰隊。

12月12日20時,曾發下「誓與首都共存亡。」豪語的中国軍司令官唐生智決定撤退逃亡時,命令並沒有下達完畢便自己先跑了。結果督戰隊並不知道允許部隊撤退了,對喪失了鬥志的士兵用機槍從背後掃射。

1937年南京保衛戰,時任中國72軍軍長兼88師師長-孫元良,防守光華門一帶。12月12日,率師直屬隊和262旅一部擅自向下關撤退,在挹江門內被督戰隊所阻。

中國佈防於南京城外大部分軍隊是朝著長江逃跑的,南京城的長江沿岸有三個門,挹江門是大門。但是,中國南京總指揮官唐生智為了防止中國士兵隨便逃跑,將門塞住了。

宋希濂部督戰隊槍斃孫元良退軍。中國最精銳的德制師之一88師幾乎全滅。

目擊自軍大部被自家督戰隊殺光的孫元良在南京失守期間,他脫離部隊,躲在妓院裡(一說躲到了外國使館),竟成為所謂「南京大屠殺」目擊者,1985年曾發表抗議書,駁斥日本軍國主義者「謊言」。

在現在痛罵日軍「南京大屠殺」的暴行中「非常活躍」的其實不是日本侵略軍,反而是專門槍斃自己人的中國督戰隊與換穿平民衣服企圖偷襲日軍而害死很多平民的「便衣隊」。

南京淪陷前夕,中國部隊正在南京城內外忙於「為求逃命」與「槍斃叛徒」的混亂荒唐「內戰」,準備入侵南京的日本軍反成為「配角」。

在南京唯一逃路的下關附近,日軍還沒入侵前,中國督戰隊將南京守軍擊斃在城牆下,士兵互相擠壓而死。

隔著揚子江,督戰隊與南京守軍雙方又互相射擊當場「陣亡」2000多人,又有跳入揚子江的凍死,溺死等的中國兵的屍體就達一萬以上,河面覆蓋滿滿的屍體。

在東京審判時,日方美國人辯護律師指出這些中國軍人屍體是中國軍隊自己火拼留下的,被法庭的各國法官認為是奇天大謊而不予採信。

直到審判法官回國之後,多年之後讀了國民黨軍杜聿明、宋希廉的回憶錄,才發現原來日本人沒有撒謊。

中國南京守軍這十幾萬部隊的大部分確實是與督戰隊自己火拼。督戰隊與撤退的潰軍交火,十幾萬中國軍隊自相殘殺死傷狼藉。

日後,國共兩黨陸陸續續號稱「日本人在南京屠殺了30萬人」,毛澤東在得到政權後還認為日本是其「恩人」(1977以後鄧小平執政後南京大屠殺症狀突然發作)

(大意)

南京戦における最大のオウンゴールは督戦隊によるものだった

中国軍総司令官の唐生智は12月12日、指揮を放り出したまま南京を逃げ出した。そのため撤退命令を受けていない督戦隊は、戦意を喪失し、撤退する自軍に対して背後から機銃掃射を浴びせた。

孫元良率いる中国軍第72軍88師団は撤退しようとした際、挹江門で督戦隊の攻撃によりほぼ全滅した。

東京裁判の際、日本側に立った米国人弁護人は、「中国兵の遺棄死体は自国軍に殺害されたものである」と主張したが、検察側は「ありえない妄説」として却下した。

その後、当時の中国軍将兵による回顧録が出されると、日本側の主張が妄説ではないことがわかった。

南京防衛軍は、日本軍ばかりでなく督戦隊とも戦火を交えたのであり、それにより10数万人の将兵が死傷したことは間違いない。

その後、国共両党は「日本人は南京で30万人を虐殺した」などと言い出したが、毛沢東は日本を「恩人」とみなしていたのである(鄧小平が突如、『南京大虐殺」を叫びだしたのは1977年以後である)。

「南京!南京!」


冒頭に挹江門で撤退しようとする中国軍と督戦隊との衝突が描かれています。

 

この記事を作成する上で参考にさせていただいたサイト(ウィキペディアを除く)

電脳日本の歴史研究会
http://www.history.gr.jp/

しばやんの日々
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry

正統史観年表
http://seitousikan.blog130.fc2.com/

かつて日本は美しかった
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/

中華佛教顯密推廣協會
http://www.buddhanet.idv.tw/

コメント

  1. 匿名 より:

    『参戦勇士九人が語る「南京事件」の真実』これに英語字幕つけて欲しいですね・・・。
    鎖につながれて死ぬまで戦わせる、これは初めて知りました。
    残酷すぎるし、投降する少年たちが本当に幼くて悲しくなりました。

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