19世紀末の李氏朝鮮。そこを裸一貫で旅行するひとりの日本人がいました。名は本間九介。西洋に抗し、アジアの近代化を図ろうとする大アジア主義者であった彼は、かの国の実情をその目で見ようと、当時20歳そこそこで渡った朝鮮の各地を一人で旅して回っていたのです。そんな彼がとある旅籠で出会った人品卑しからぬ二人の朝鮮人。そこでひょんなことから歴史認識をめぐる熱い論争が始まりましたーー。
歴史戦の現場から戦況をリポートする当ブログですが、今日はちょっと趣向を変えて、時間をさかのぼり100年前の歴史戦をリポートします。
ネタ元は『朝鮮雑記ー日本人が見た1894年の李氏朝鮮』という本です。
以下、その中の「東学党の首魁と逢う」という一節から引用してご紹介します。
※読みやすいよう改行を変更し、また原文にはない注釈もつけました。
彼らは(中略)、行李の中から筆と紙をとりだした。私が士人(武士階級)だと言ったことで、多少は漢文がわかるものと知って、筆談を試みようとしたためである。
たがいに、姓と字を交換し、初対面の礼も終わり、彼らがおもむろに説きはじめたことには、「あなた様は隣国の士人であられます。思いますに、きっと史籍(歴史書)にも多く接しておられるでしょう。よく存じないので教えていただきたいのですが、あなたがたの国には、壬辰(1592年)のことで、わたしどもの国を敵視しておられる人が多いのではないでしょうか」と。
壬辰のこととは、まさしく太閤征韓の役(文禄の役)をいう。
壬辰の役では、わが国が大勝、かの国は大敗したのである。大勝した国の人が、大敗した国の人を敵視する理由はないし、むしろ、私たち日本人は、この勝利を空前の大快事としている。というわけで、この質問は、私の予想外にあるものだった。
彼らは、もしや、わが軍を破ったものと思っているのではないだろうか。この聞きまちがいは、たいへんおかしな話である。
私はすぐに筆をとり、「壬辰の役では、八道(朝鮮全土)の草木ことごとくが、わが軍に蹂躙されました。わが軍は全勝しています。勝っている側のものが、どうして恨みを今日まで懐いているというのでしょうか」。
彼らは、たいへん不平に感じたようで、すぐに筆をとり、全羅道の沿海や慶尚道東部の戦況について、はなはだ詳らかに説いた。そして、ついに言うには、「あなたがたの国では、この歴史を忌んで(不吉とし、遠ざけて)、事実を伝えていないだけではないですか」と。
私は、寡聞にして征韓史をよく知らない。それでも、小西行長や加藤清正らの全軍が、釜山に上陸し、破竹の勢いで慶尚・忠清の二道の中央部を突破し、その後、京城入りした顛末を説いて、おおいに彼らの誤解を正した。そして、言った。
「朝鮮と日本で歴史を伝えるところは同じではないようです。ここで、どうか、事実に照らし合わせようではありませんか。あなたがたの国が、勝ったとしましょう。それなら、どうしてわが軍が、長距離を進軍して八道を、まるで無人の地を行くかのように、蹂躙できたのでしょうか。また、どうして、二人の王子を捕虜にすることができたのでしょうか。それから、もし、わが軍が敗北したというのでしたら、あなたがたの国は、何を苦しんで明に援けを求めたのでしょうか。何を苦しんで畿内(都域)から逃れたのでしょうか」。
彼らは、私が書いたものを見終わって憮然とした。これまでは、私が一語を書き終えるたびに、たがいに何かを口数多く語り合っていたが、このときは、口をつぐんだまま、顔を赤らめ、斜めから私をじっと睨みつけ、たがいに顔を見あわせて黙りこくっていた。彼らの心の中には、明らかに忿(いかり)の色がふくまれていた。
しばらくして、彼らは筆を潤すと、「それは、嘘です。嘘です。もし、その話が真であるなら、あなた様も敵国の人ということになるではありませんか」。
彼らは、思った通り、忿怒を筆の端に露出させたのだった。彼らは、はじめて私を見たときより、いまだ笑みを示してはいなかった。思うに、彼らが私のことを快く感じていないのは、このときに始まったものではなかった。私が日本人であることを告げたときから、彼らには、私を憎む感情が引き起こされていたのである。
ああ、彼らには、敵愾(敵国への反発)の気概がある。慷概(不正などに憤り、嘆く)の志がある。
(中略)
ここで、私は言った。
「そもそも、隣国の関係というものは、和睦することもあれば、戦うこともあるのです。どうして、壬辰のことだけをもって、私どもの国を敵視する必要がありましょうか。
あなたがたの国が、このことをあげて私どもの国を恨むというのでしたら、私どもの国も、同じようにあなたがたの国を恨むものがあるということでしょう。たとえば、元の軍が来寇したときには、あなたがたの国がこれを導いたのではありませんか。また、あなたがたの国は、かつて対馬の住民を鏖屠(おうと=みなごろし)したのではありませんか。
とはいっても、これらのことはすべて過去の事蹟にすぎません。今さら、とりたてるべきことではないでしょう。ましてや、今は、東亜(東アジア)の危急のときです。あなたがたの国は、まさに小国であって、強大な清国とロシアのあいだに挟まれ、兵は弱く、国は貧しいのです。その状況は、いっそう岌岌として(険しく)、まさに危殆(たいへんな危機)のときにあるのではないでしょうか。
古い言葉に輔車相寄るーー、また、唇亡べば歯寒しーーとも言います。あなたがたの国にとって、私どもの国は、実際に輔車唇歯の国ではありませんか。
(中略)
あなたがたの国の廟策(朝廷の政策)を見ておりますと、溝を清くして、塁を高くするような(軍事的な守備を固める)策はなく、今日は清に依って、明日はロシアに依っています。自屈自卑です。かろうじて、強秦(下心のある大国ーーここでは清国とロシアのこと)の庇護に依って、列強のあいだで安全を保とうとしているかのようです」。
(中略)
私の言を聞いた彼らは、冷ややかであった。そのさまは、あたかも、私のことを、詭弁を弄する説客(政策を売り込む策士)風情とでも思っているかのようだった。
そして、彼らは言った。
「あなたがたの国と私どもの国が、どうして、輔車唇歯の関係を有(たも)つというのでしょうか。ご覧なさい。びょう漫(はてしなく広がる)とした水が、両国のあいだを画して、万里を隔てています。清やロシアとは、壌(つちー陸地)を接して、国境を交えているのです。その関係には及びますまい。あなた様の言では、遠いものを近いとし、近いものを遠いとしています。根本的に誤っています。
(中略)
かえって不可解に思うのですが、あなたがたの国は、堂々たる徐市(じょふつー徐福)の末裔でありながら、何を苦しんで、西洋の臣隷(家来)となり、その正朔を奉じ、腥せん(生臭いものー西洋文明のたとえ)を学ぼうとするのでしょうか。ようするに、あなた様が言われることは、自身の臭いに気づかずに、他人の臭いをあげつらう(目くそが鼻くそをあざ笑う)ようなもので、たいへんおかしなことなのです」。
私が、せっかく蘇秦(中国春秋戦国時代の遊説家)を気取り、彼らを説き、心服させるつもりであったが、彼らは私に耳を貸さなかった。
(中略)
彼らが時勢に通じず、事情に疎いのは、多くの場合、このようなものである。
(中略)
それにしても、彼らの言の後段では、意外な内容があって、私をたいへん驚かせた。彼らは、なんの根拠をもって、わが国を西洋の臣隷として、その正朔を奉じるものと、決めつけたのか。私は、疑問の中に首をかしげていた。
そして、しばらくのち、その意図を悟ったのである。わが国が、明治維新以来、暦日・制度・法律の大本から、末は家屋や衣服にいたるまで、西洋に擬したのだが、彼らは早計にも、その外形だけを見て、西洋の属国と断定したのである。
はたして、彼らは再び筆をとって、「私どもの国は、清国の正朔を奉じておりますが、衣冠(宮中の正装)は、今も、明の古制を変えることなく守っているのです」と、書き加えた。
私は、おおいに、彼らの意を理解することができた。日ごろより、極端な西洋模倣を気にくわないと心に懐(いだ)いてはいたが、そのことを、彼らの筆によって正面から言い切られたのを恥じた。今、私が着ている衣服も、和服であったならと、思いつづけたのである。
ところで、彼らは、なんの根拠をもって、わが皇室を徐市の後衛であるなどと叫んでいるのか。これは、憎むべき説である。感情を激発させた私は、至誠をこめて、これを論駁したのである。
彼らは理解してくれた。私もまた、心を打ち解けた、彼らの話をよく聞けば、案外な慷概家(不正に対して義憤にかられる人)であった。(中略)惜しむべきは、文字(学識)があるのに比べて、時勢に通じず、事情に疎いことだろう。とはいえ、彼らは、韓人の中では傑出した人物である。
『朝鮮雑記ー日本人が見た1894年の李氏朝鮮』/「東学党の首魁と逢う」より
事実と客観性を重んじつつ相手のことも理解しようと努める日本人、自説に固執し詭弁に逃げる朝鮮人ーー。両者の思考パターンは今も昔もほとんど変わっていないようです。

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