反日プロパガンダをめぐる情報戦の最前線から戦況を報告いたします。歴史戦勝利のための傾向と対策マニュアルになれたらと思います。いうほど速報じゃないですヾ(- -;)

【盧溝橋事件の真実】支那事変は、壊滅寸前の共産党がしかけたワナだった!!

  

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日中戦争(支那事変)は誰が引き起こしたのか?

私たちが戦後教えられてきたところによれば、日中戦争の発端となった盧溝橋事件は日本軍が意図的に引き起こしたものであり、日本軍はそれを口実にかねてからの念願だった中国侵略を果たしたとされています。

しかし最近の研究によるとそれはまったくのでたらめであり、真実は中国共産党が日本軍と国民党軍を衝突させるため引き起こしたものであることが明らかになっています。

いまもなお歴史認識問題に大きな影を落としているこの問題ですが、盧溝橋事件の勃発から80周年となるこの節目に少しでも多くの人にその真実を知ってもらいたいと思い、昨日に引き続き関連記事をご紹介いたします。

姉妹サイトの「新・真相はかうだ!」からの転載です。

 

(以下、youtube動画『日中戦争は誰が引き起こしたのか?』をもとにブログ用に再構成しました)

一般に日中戦争は、1937年7月7日、盧溝橋事件で日本軍が侵略戦争を発動したことにはじまると私たちは教えられてきた。しかし、それははたして真実なのであろうか? 本当に日本軍は自らそうしたいと決意した上で盧溝橋事件を引き起こし、それを口実に中国に対する「侵略戦争」を開始したのだろうか?

その真偽を探るため、ここでは盧溝橋事件の3年前までいったん時計の針を戻してみたい。

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1934年10月、蒋介石軍との戦いに敗れた毛沢東の共産党軍は根拠地の中国南部を脱出し、北西部へと逃れた。いわゆる大長征である。

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1936年秋、2年にわたる逃避行の末、共産党軍はソ連国境に近い延安に到着した。しかし、そこは不毛な黄土台地にある中国でも最も貧しいとされる地域であった。加えて、その兵力は出発時の十分の一まで激減していた。

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兵隊はいないし、武器もない。これでどうやって戦えというのだ? いや戦いどころではない。今いる兵隊たちをどうやって食わせていけばよいのだ…。毛沢東は頭を抱えた。

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そうした中、降って湧いたような天佑が転がり込んできた。

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1936年12月、張学良が突然蒋介石を監禁し、「共産党への協力と一致抗日」を迫ったのである。いわゆる西安事件である。

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これを千載一遇のチャンスととらえた共産党は、「もし一致抗日に協力してくれるなら、われわれは喜んであなたの配下になりましょう」と蒋介石にもちかけた。要は今までのことを水に流し、倒産寸前の自分たちを吸収合併して救ってほしいという虫のいい要求であった。

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しかし、蒋介石はそう甘くなかった…。

「あいつら前回も俺らの仲間になるふりをし、勝手に入り込んできておきながら結局裏切ったからな。そうは問屋がおろさんぞ」

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だが、崩壊寸前の共産党にとって国共合作は文字通り最後の命綱であった。ここはなんとしても蒋介石にのんでもらわねば…。毛沢東はそう考えた。

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そんな矢先、またもや共産党に「謎」の天佑が訪れた。

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1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で謎の発砲事件が発生。それを機に日中の小ぜり合いが発生したのである。世に言う盧溝橋事件である。

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これに対し、共産党は事件発生からわずか数時間後には通電を発し、全国民に向けて一致抗戦を訴えた。まるで事件を事前に予知していたかのような異例の段取りの早さだった。

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あわや全面衝突かと危惧されたが、日本政府は不拡大方針を堅持。直後に結ばれた現地停戦協定によって小ぜり合いはいったん収束に向かった。

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共産党は落胆した。日中が衝突すれば内戦より抗日を求める世論が高まり、それだけ国共合作をもくろむ共産党にとっては追い風となるはずだったからだ。

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ところが、どういうわけか共産党にまたまた「謎の天佑」が降ってきた。

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停戦協定が結ばれたその直後から、どういうわけか日本人をねらった殺害事件や挑発事件が中国各地で頻発。その結果、停戦協定は事実上無効となってしまったのである。

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この間に発生した中国側による挑発事件の主なものは以下の通りである。

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7月13日 大紅門事件(爆殺により日本兵4名が死亡)
7月25日 廊坊事件(日本軍が銃撃を受ける)
7月26日 広安門事件(日本軍が銃撃を受ける)
7月29日 通州事件(日本人居留民223名が惨殺される)
8月9日 大山事件(大山勇夫海軍中尉が殺害される)
*大山事件当日、元外交官船津振一郎を介した和平交渉(船津和平工作)が予定されていたことに注意。この会談で日本側は、満州事変以後、日本が得た権益のほとんどを放棄するつもりでいた。そこまでして紛争を終結させようと思っていたのである。

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不拡大方針にもとづく日本側の和平への努力とは裏腹に中国の世論はこの間、どういうわけか過激さを増していく一方だった。平和を求める声よりも全面抗戦を訴える論調の方がますます強くなっていったのである。

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こうしたなか外国人軍事顧問の教唆を受けた蒋介石は8月13日、上海の日本人租界に向けて突然攻撃を開始した。第二次上海事変の勃発である。

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一連の動きから蒋介石が強固な開戦意志を持っていると判断した日本政府は、それまでの不拡大方針を撤回。8月15日、「南京政府の反省と懲罰」のためとして日本軍の上海派遣を決定した。

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日本軍の正式派兵と激昂する国内世論を受けた蒋介石は徹底抗戦を表明。8月22日、共産党軍を国民党軍に組み込み、ともに一致抗日をはかることを正式に決定した。

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ここに共産党の悲願であった第二次国共合作が、ようやく実を結んだのである。おそらく毛沢東はしてやったりとほくそえんだことであろう。

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その20年以上も後のことである。

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1964年、訪中した日本社会党の委員長が、過去の戦争への謝罪を述べたのに対し、毛沢東はこう答えた。「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権力を奪取することは不可能だったのです」

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また中国共産党が発行した『初級事務戦士政治課本』というパンフレットには、「盧溝橋での発砲事件は党中央の指令を劉少奇同志が実行に移したもの」と記されているという。

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さらに、ここでもうひとつ、指摘しておきたいことがある。それは日本がこの支那事変の発生後、和平交渉を何度も試みたという事実である。しかもそれは戦線が拡大した後でさえ複数回にわたって試みられている。以下はそうした和平交渉の主なリストである。

1、現地停戦協定(松井-秦徳純協定)1937年7月11日
2、宮崎竜介和平工作 1937年7月19日
3、船津和平工作 1937年8月9日←同日午前、大山大尉殺害事件が発生し
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4、トラウトマン和平工作 1937年11月5日
5、汪兆銘和平工作 1939年〜1940年
6、桐工作 1939年〜1940年

これをみて奇妙だと思わないだろうか? 仮に日本が中国を侵略したくてそうしたのであれば、なにゆえ和平交渉などもちかける必要があったのだろうか? 国際世論を意識したたんなる外交的なポーズ? だとしたらなにゆえ何度もそうしたのか? また中国側が真に和平を望んでいたなら、なにゆえその度に拒否しつづけたのか? 心の底から平和を望んでいたなら、条件が少々不利なものだったとしても妥協するのが普通だろう。ましてや開戦以来、負け戦続きだった中国である。力関係からいってもそうするのが当然だったはずだ。

しかし、どういうわけか中国はそうしなかった。むしろ強気で交渉に臨み、なにやかや理屈をつけては一方的に交渉を打ち切るという高飛車な態度をとり続けた。

これをみるかぎり、中国は和平など望んでいなかったように見える。日本と中国、戦争を望んでいたのははたしていったいどちらだったのであろうか?

さて真相やいかに?
後はご自身の頭で考えてみてほしい。

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【佐藤守】1_盧溝橋事件は劉少奇がやったと告白


 

(管理人後記)

支那事変のはじまりは一般に盧溝橋事件とされていますが、本当は第二次上海事変とすべきです。戦後、左翼歴史家が盧溝橋事件を発端としたのは、中国側による宣戦布告なき一方的な攻撃だった上海事変を発端としてしまっては「侵略に対抗して立ち上がった中国」という「神話」が成り立たなくなってしまうからです。そこで彼らは発端を意図的に盧溝橋事件にまでさかのぼらせ、しかもそこでの謎の発砲事件をあえて謎のままにしておくことで、それを日本側がしかけたような印象操作を行ってきたのです。

 

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