反日プロパガンダをめぐる情報戦の最前線から戦況を報告いたします。歴史戦勝利のための傾向と対策マニュアルになれたらと思います。いうほど速報じゃないですヾ(- -;)

【拡散希望】「南京虐殺」の裏に隠された中国軍の蛮行 その2 支那兵の正体

  

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南京虐殺は中国軍の蛮行のミラーイメージだ!

いわゆる南京虐殺なるものは真っ赤な嘘です。日本軍が南京市民に対して組織的な大虐殺を行ったなどという事実はありません。事実はむしろ逆です。当時、中国人に対して残虐行為を働いていたのは他ならぬ中国軍の方でした。

その当時、中国軍はいったい何をしていたのでしょうか? じつは彼らこそが大虐殺を働いていたのです。南京戦の前後、とくに上海から南京への敗走途中、沿道の住民に対して掠奪、殺人、強姦をほしいままにしていたのは日本軍ではなく中国軍だったのです。

いまの中国人が非難しているのは現実の日本軍ではありません。日本軍に投影された自国軍のミラーイメージです。要するに中国人は鏡に映った自分の姿に怒りをぶつけているだけなのです。

このシリーズでは、そのミラーイメージのもとになった中国軍のおぞましい行状を、左翼勢力によって長い間隠蔽されてきたその歴史の裏面を五回にわたって暴き出し、白日の下にさらしていきます。

五回シリーズ「南京虐殺」の裏に隠された中国軍の蛮行

その1 漢奸狩り
その2 支那兵の正体  ←今ココ
その3 督戦隊による残虐行為
その4 安全区内での中国兵による犯罪
その5 通州事件

第二回目の今回は、支那兵の正体を取り上げます。

「南京事件」の前後、中国軍が行っていた悪行のまとめ その二、支那兵の正体

左翼は、日本軍がいかに残虐だったかを得々として語りますが、より残虐だったのは中国軍の方です。もちろん聖人君子ならぬ日本兵もいったん戦闘態勢に入ればそれなりに「残虐」だったわけですが、それでも支那兵の残虐さに比べたらそれこそ雲泥の差というべきです。巷間言われている日本兵の残虐行為なるものも、じつのところその多くが中国兵のそれが日本兵のものとして誤って、あるいに意図的にゆがめられて伝わったものにすぎません。

ここでは、上海から南京へ向かう途上の、いわゆる江南での戦いにおける中国軍の行状を、当時の日本兵の証言をもとに振り返ってみます。

以下、『証言による「南京戦史」』(偕行社)より抜粋

支那軍兵士による略奪

歩兵第十九旅団司令部通信班長 犬飼総一郎

無錫も常州も掠奪の跡歴然たるものがあり、私はこの時はじめて、支那軍による掠奪の凄まじさを見たのである」。

旅団長草場辰巳少将

「第十六師団が天津から子牙河沿いに西南進した作戦末期のことである。児玉支隊が10月13日、未明、隆平県城の城壁上に取りつき夜が明けてみると、城内は敗残兵による掠奪で阿鼻叫喚の街と化していた。
日本軍は、ただ呆ッ気にとられて、しばし茫然としてこの地獄図を城壁から眺めていたのである。
隆平県城内になだれ込んだ敗残兵は、住民から衣・食を奪って便衣化し、明け方になって逃げ出す算段であったのだろう。城壁がすでに日本軍に占領されたのも知らず、掠奪の大狂乱を演じていたのである」。

ちなみに日本軍の行動は次のようにそれとはまったく対照的でした。

蘇州の無血占領

敵が城壁によって抵抗した都市・村落は、彼我の戦闘、中国軍退却時の「焼光作戦」(家を焼き払い敵に利用させないようにする)により破壊消失したが、無抵抗の城市は無傷のまま占領されたのである。当時の上海派遣軍参謀、大西一氏は、蘇州の「無血占領」について次のように述懐している。

「上海派遣軍が南京に向かい追撃作戦を開始し戦闘司令所を常熟に進めた時、飛行機の通信筒投下により次の状況を知った。
『第九師団は湖沼地帯を突破して蘇州に近づいている。蘇州にはなお相当の住民が残留している模様』。
松井大将は私に対して”貴官は直ちに蘇州に急行して、蘇州の文化と住民を守れ”と命ぜられた。
夕陽が漸く西に傾き、戦場には傷ついた馬が二、三頭たたずんでいるのを見ながら、将校一名、下士官二名を連れて蘇州に急行した。蘇州に着いてみると、第九師団主力はまだ到着していない。城内を一巡すると、古いお寺のような建物があちらこちらにあり、郊外には有名な寒山寺もある。
『文化を守れ』と言われたが、これを焼かないようにするためには、日本軍を城内に入れないことであると考え、『日本軍の入城を禁ず 上海派遣軍司令官、陸軍大将松井石根』と大書して各城門に掲示した。日本軍が入城して休憩すれば、焚火をし、出発の際に火の始末が悪いと火事を起こすことが間々あるのでこの措置をとったのである。
しばらくして第九師団司令部が到着したが、同期生の小西(健雄)参謀がいたので、松井大将の意向を話したら”わかった”と言って城内に入らず前進をつづけた。翌日、軍司令部が到着し、城外に司令部を置いた。
私は松井大将に報告したが、大将はニッコリと笑って私の措置を是認されたのである。
このように蘇州においては一軒の民家も焼かれず、治安も良好で逃走していた住民も逐次復帰し、行政も順調に進んだ。蘇州の治安維持会長であった陳則民氏は、その後、南京に成立した維新政府の教育部長に就任し、たびたび特務機関に来られて蘇州の話をされたものである」。

 

海外メディアが伝えた中国軍の焼土作戦(三光作戦)

『報道戦線から見た「日中戦争」』 西岡香織著 P118~119

ニューヨーク特電 7日

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「首都陥落を前にして、支那軍は7日も南京市外10マイルの地域内にある全村落に火を放ち、日本軍の進撃に便宜を与えるような物は全て焼払わんとしているため、南京市は濛々たる黒煙に包まれてしまった。

記者(ダーディン)は自動車を駆って南京市東部の戦線へ視察に赴いたが、中山門を出ると総理陵苑の彼方の低地は一面猛火の海と化しており、焼け落ちた家々からは、今まで踏み止まっていた村民の群が、僅かばかり家財道具を背負ったり小脇に抱えたりして、よろめきながら城内指して逃げ込んで来る」

 

『南京大虐殺の徹底検証』 東中野修道著 P45~46

防衛地帯内の障碍物が支那軍に焼かれ続けた。昨夕焼かれたものの一つに中山陵園地区内の支那高官の高級住宅があった。南京の周りは立ちのぼる黒煙に包まれた。半径16キロ以内の建物や障碍物もまた昨日支那軍に焼かれ続けたからだ。車で前線に行くと、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているのを、本紙特派員は見た。

中山陵沿いの幹線道路を走って孝陵衛に行くと、そこの村は焼け落ちて、燻(くすぶ)る廃墟であった。この数日間に避難しなかったそこの住民たちが、哀れにも僅かばかりの物を持って、ぞろぞろ南京へと歩いていた。そして時々立ち止まっては、かつての我が家を今一度見るため悲しそうに振り返っていた。

焼かれたのは南京の東だけではなかった。南京は、西と北に揚子江が流れる。日本軍は上海から南京に向かっていた。従って、南京の東と南で戦闘が起こるとは、衆目の一致するところであった。そこで、住民の強制退去後に、南の人口密集区域の中華門(南門)周辺が焼かれた

※上記二つの記事は「正統史観年表」様より転載させていただきました。

http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-322.html

支那兵の残虐ぶり

『郷土部隊と共に歩んだ「わが青春の中国大陸従軍譚」』
(昭和52年)私家版の片山兵二著

「どうも油断がならなくてね。
昨夜も付近烽火を合図に数十名の敗残兵が現れ、良民から金品を強奪して行きました。そのため毎日討伐をやり、警戒を厳重にしていますよ」(347頁)

大坪鉄三郎准尉と長倉久徳一等兵が語る、湯山の南の句容の状況。
「この近くの部落へ十五名ばかりの強盗がやってきて、主人(農夫)を竈の上に吊り上げ、火あぶりにしたが、それが丁度、憲兵隊が使っているコックの実家なので、すぐに報告があり、今朝二手に分かれて討伐をやったのです。・・・奴らの残忍性にはあきれます。

農民を火あぶりにした上、金を奪い取り、憲兵隊へ密告せば命がないぞと脅していくので、農民はブルブル震えて仕事が手につかないのです、そのためわれわれが行くと喜び親しんでイスをすすめ、お茶を出して歓待してくれますよ」(349頁~350頁)

※上記の記事は「正統史観年表」様より転載させていただきました。

http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-322.html

奉天軍閥の四大罪


これは張作霖率いる奉天系軍閥を非難するため蒋介石軍が作成した宣伝ポスターのようです。略奪、強姦、放火、殺人とありますが、実際これが当時の中国軍の日常風景でした。支那軍自身が支那兵の劣悪さを証明したという意味で、このポスターはまさに語るに落ちたものといえるでしょう。

 

中共軍の規律正しさ?


毛沢東が創建した労農紅軍には三大紀律八項注意という厳しい軍律があったとされています。これは中国共産党軍の紀律正しさを示す証拠としていまも左翼系の学者らが誇らしげに取り上げる材料のひとつになっています。しかし日本軍なら当たり前でしかない基本的な軍規がこれほど高く評価されていること自体、むしろ当時の中国兵がいかに無規律であったかを傍証するものといえます。もっとも当の労農紅軍にしてもこの三大紀律八項注意がどこまで守られたのかはおおいに疑問ですが‥。

 

清朝時代も残虐だった支那兵

太平天国軍と清朝軍との最後の攻防戦となった天京(南京)での戦い(1864年)。ここでも支那兵は、敵の兵士ばかりでなく一般市民に対しても残虐の限りを尽くしました。この時は、20万から30万の一般市民が犠牲になったといわれています。

以下、ウイキペディアより

天京(南京)虐殺
3日間の戦闘で百万の太平天国軍のうち十万が死亡し、さらに多くの負傷者を出した。清軍は太平天国軍の殲滅に続いて数多くの市民を虐殺した。曾国藩の幕僚の一人趙烈文は『能静居士日記』において、道路には老人の遺体が大量に転がり、2、3歳の幼児も遊戯のように殺害され、40歳以下の若い婦女は拉致され、20万から30万の犠牲者が生じたと記録している。蘇瑞鏘は1937年12月の日本軍による「南京大虐殺」に対して、この事件は「湘軍版南京大虐殺」であるとしている。

能静居士日記
「沿道に転がる死者は10人のうち9人が老人である。また幼児も戯れに刀でたたき殺され路上に放置されている。40歳以下の女性は1人も見かけない。傷のない老人はなく、十余刀、数十刀の刀傷があった」

天京攻防戦

 

凌遅刑

凌遅刑(りょうちけい)とは、生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間にわたって激しい苦痛を与えたうえで死に至らす刑のこと。中国伝統の刑罰で、20世紀初頭の清朝末期まで実際に行われていました。

閲覧注意→

 

通州事件

南京攻略戦に先立つ5ヶ月前の1937年7月29日、北京近郊の通州で中国人部隊が日本人居留民を襲撃した事件。その処刑、殺害方法がきわめて猟奇的だったことから当時の日本人に大きな衝撃を与えました。これについては5回目に稿を改めて紹介する予定です。

 

次回は督戦隊による残虐行為を取り上げます。

※この記事を作成する上で参考にさせていただいたサイト(ウィキペディアを除く)

電脳日本の歴史研究会
http://www.history.gr.jp/

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 -中国共産党, 南京事件, 歴史戦, 自虐史観