反日プロパガンダをめぐる情報戦の最前線から戦況を報告いたします。歴史戦勝利のための傾向と対策マニュアルになれたらと思います。いうほど速報じゃないですヾ(- -;)

【速報】女性を差し出すのを拒否した神父を日本軍が殺害??中国様が新たな「ゆすりネタ」を出してきたぞ(`ハ´)

  

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それほど速報というわけではありませんが、日本に対する新たな「ゆすりネタ」が最近登場したということで、注意を喚起する意味であらためてご紹介させていただきます。

出典は、10月2日付けの産経ニュースです。

蘭人司教ら殺害の正定事件で「日本軍犯行説」の既成事実化進む…司教名の散歩道が故郷に 新種の赤いバラにも同じ名が…

オランダ人のカトリック司教ら9人が昭和12(1937)年10月に中国河北省正定で拉致・殺害された「正定(せいてい)事件」で、司教殺害に関する調査を行っているオランダの団体が今年に入って同国内の司教の出身地に司教の名前を冠した散歩道を整備した際、「女性を守ったため日本軍により殺された」との表示を付け加えていたことが分かった。司教の名前を使った海外輸出用の新種のバラも開発されるなど、当時の外交史料にさえ裏付けされていないことが「既成事実」として拡散されようとしている。

正定事件をめぐっては「司教らは日本軍が慰安婦とするために要求した中国人女性の差し出しを拒否したため殺害された」との説が“史実”として独り歩きしている。司教らを聖者に次ぐ「福者」にしようとする列福の動きがある。

殺害されたシュラーベン司教の名前がついた散歩道は、司教が生まれたオランダ南東部にあるロットゥムに設置された。10キロにわたる散歩道の除幕式とバラのお披露目は今年6月26日に開かれた。シュラーベン司教と名付けられたバラの色は「殉教者の血」を表すとしている。行事には中国人司祭も出席した。

しかし、日本政府が8月に、当時の日仏の外交史料を中心に事実関係を改めて調査したところ「日本軍が女性を要求したことを裏付ける資料は発見されなかった」との結果を得た。唯一、日本軍が女性を要求したと話したとされる中国人神父についても、その発言内容は昭和13年12月1日付の文書以外にはないことから「信憑(しんぴょう)性のあるものとは考えにくい」とした。仏政府は、司教がフランスの教会からの派遣だったことや犠牲者に仏人が含まれていることから真相究明のための調査を行っていた。

これに関し、産経新聞は8月15日付朝刊で、仏外交史料館に保存されている当時の日仏両外交当局の史料に日本軍が慰安婦にするための女性を要求した事実はなかったことを報じている。

転載元:産經ニュース→

この正定(せいてい)事件。真相はいまだ謎のようですが、これまでの例に照らすと、これもでっち上げの可能性が高いように思います。

以下、ウィキペディアを元に事件の概要を記します。

1、1937年11月12日[1] 、26日付『Catholic herald』および、1937年11月23日付『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されている記事によれば、9人のオランダ人司教達は、中国の山賊に誘拐され、その後、殺害されて発見されたとされる。

2、1937年12月3日付『Catholic herald』に掲載された記事によれば、北京の日本軍広報担当者によると、正定で起きたカトリック宣教師9人の誘拐殺害事件は満州軍の犯行ではないとし、日本軍が正定を占領した直後で最も混乱している最中に犯行が行われていることから、一部の中国人が日本兵の死体から制服を剥ぎ取り、日本兵に成りすまして犯罪を犯した可能が大きい。犯人のうち、3人が完全な中国語を話したことを確認し、それが証拠であるとしている。

3、1938年2月26日付『ルーアン及びル・アーヴル教会報』に掲載された記事によれば、正定のラザロ会施設に、夜陰に乗じて朝鮮人又は満洲人の武装集団が威嚇しながら突然出現し、スフラーヴェン司教及びその配下の宣教師6人、エマニュエル神父、非聖職者1人の両手を縛り、目隠しをして連れ去った。11月12日になって、ラザロ会施設の使用人達は、その町の近くにある木造の高塔の近くで、焼かれた遺体と遺品を発見し、翌日に回収したとある。

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4、事件から5ヶ月後の1938年4月2日付『The Tablet(国際カソリック週報)』に掲載されている記事によれば、当初、中国の山賊に誘拐され殺害されたと報道されていた司教、聖職者、信徒9名について、日本軍当局が徹底した調査を行った結果、彼らを殺害したのは日本軍所属の朝鮮人または満州人兵士であったという結論に達したとされる。さらに、横山彦真少佐(記事ではYokohamaと表記)及び日本軍当局者、外国人宣教師、仏教僧侶などの列席のもと、同年11月22日に追悼ミサを行い、日本軍司令官の弔電が読まれたことも記されている。そして、追悼ミサのあと、横山は「同様の事件が二度と起こらないようにしなければならない」と述べたとされる。

5、在北京日本大使館員、森島守人が在北京フランス大使館のフランシス・ラコステ宛に日本政府が行った事件の調査結果によると、犯行は日本軍ではなく「支那敗残兵」によると明記している。その後も続けた調査でこれを「覆す証拠は見つからなかった。従って日本政府は当該事件に関する責任を負いかねる・・・」と記されてある。

6、オランダ人神父が使用人から聞いた話には「強奪者は十数人で全員日本の軍服を着ていた。連隊の帽子ではなく、フェルト帽をかぶっていた。(中略)彼らは満州の”赤ひげ”つまり山賊だと話し、国に帰るのにお金を欲しがった」とある。また教会側からの手紙には「兵士がお金を要求したり、物を奪ったりした」とあるが、女性を要求した記述は無い。

7、2012年10月13日から14日にかけてオランダで殉教75周年を記念する式典が行われ、日本から参加した司祭は式典中、日本カトリック司教協議会会長の池長潤大司教の書簡を代読した。この書簡には「フランス・スフラーヴェン司教は、女子修道院に逃げ込んだ中国人女性の中から200人を慰安婦として差し出すよう求められたのを拒み、焼き殺された」という内容が記載されている。
2月21日府付『読売新聞』に掲載されている記事に対して、カトリック信徒有志による「教会の政治的言動を憂慮する会」から池長潤大司教宛てに公開質問状が送られた。

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当時の中国は内乱の真っ最中であり、治安はほぼないに等しく、今でいう崩壊国家でした。ちょうどいまのシリアと同様です。いやそれ以上にひどい状態だったといえるでしょう。

そのため、馬賊や匪賊と呼ばれる犯罪集団が軍隊同士の戦闘の混乱に乗じて略奪、強姦を働くことはそれほど珍しいことではなかったようです。

というより、給料の少ない中国兵にとっても略奪、強姦は、戦闘にともなう一種の危険手当のようなものでしたし‥。

実際、これが中国軍の日常でした。↓
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中国軍の四大罪(奉天軍閥の悪行を非難するため蒋介石軍が作成したパンフレット。しかし蒋介石軍も似たり寄ったりだったのはご愛嬌)

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